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兼定に会いに行く02

土方歳三資料館で貰ってきた何枚かのプリントの中に、地図もあった。そういえば資料館のスタッフに「お墓石田寺にありますよ」と言われて「行ってきました」と答えていたひとがいたな、と思い出す。

なるほど、場所の配置を考慮すれば、石田寺→土方歳三資料館→他の施設と行ったほうがよかったようである。まあ終わったことは仕方ないし、兼定を見る以外の予定を全く考えていなかったのだから仕方あるまい。時計を見ればまだ13時にはなっていなかったので、余裕もありそうだ。とてこてこ石田寺へ向かって歩き出す。途中、サイゼ○ヤのある道路が多少混雑してはいたものの、徒歩の身には無関係なので信号待ちしつつ、悠々と歩く。ゆっくりのんびり、途中マンホールに彫られていた鳥の絵が可愛いとか妙なことを思いながら歩いていたので、片道10分もかかったかも知れない。ただ、散歩には程よい距離であると思えた。他に数組の同好の方々と思しき人々を見つけつつ、お寺へ向かう。真言宗とあることは非常に嬉しかった。実は我が家も真言宗なのである。

境内は数人の姿がちらほらと見えたが、閑静な住宅街に相応しい静けさが心地よかった。晴天がデスクワークに慣れた身には些か眩しいけれども、暑くもなく寒くもない今時分の気候は好ましい。大きなカヤの木が涼しげに影を作っていて、その木陰で休む人もいたようである。そのカヤの木の脇に歳三の石碑がある。

墓に遺影が飾られているのは亡くなって間もないころだけかと思っていたのだが、歳の墓にはあの有名な遺影があった。紫外線で変色はしているものの、このあたりには「土方さん」が多いので、識別するためにもあったほうが良いのだろう。事実、この歳三実家近辺で土方さんちを何十軒と見かけた。江戸時代から続くような古い集落などには良くあるが、次男三男を分家にしたり、使用人を分家にすることもあるので、大半はそういった分家であるのかも知れない。歳三の家は豪農だったというから、その可能性は比較的高いと思えた。

それはさておき。お墓の写真はやっぱりお参りさせていただいてからだよなと妙に律儀に思い、手を合わせてから「失礼します」と声をかけてパチリ。そしてお墓を退いてから横の歳三の俗名が書いてあるところをパチリ。と撮影して、石田寺をお暇させていただいた。因みにこの石田寺は日野七福神の福禄寿のお寺でもある。

さて、次はどうしようかと思ったのはこのあたりである。地図を見ると他の場所は資料館の反対側ばかりである。時間には余裕があるし歩いていくかと思ったのは、バスルートに不案内だったことと、史跡めぐりの地図(しかもモデルコースの案内付)を貰っていたことを忘れていたからである(苦笑) ただ、残念なことに私が頂いたのはこの薄い桜の歳がついていない左側部分だけであって、右側の歳付きのバージョンはなかった。でもあったとしても貰いにくいよなぁと後から思ったのは内緒である(笑)。

それで、とりあえず佐藤彦五郎さんちまで歩いていってみることにした。
佐藤彦五郎さんは、歳の姉であるノブさんの旦那さんである。つまり義兄。新選組のパトロンの一人でもあった。てこてこのんびり歩いて行ったが、この道を歳が歩いたかどうかは判らない。ただ、天気も良かったし何となく楽しい散歩にはなかった。が。

川崎街道から見えるほどの距離にある筈の彦五郎資料館が見つからず、日野宿本陣が先に見つかったので、そちらをまず見ることにした。

日野宿本陣は都内で唯一残る江戸時代に建設された本陣建物である。と資料にはあった。子供の頃、江戸時代に建てられた家に住んでいたことがあるが、現代の建物より余程歪みが少ないことも珍しくない。入口で入館料を払おうとすると、セット券を薦められた。聞いて見ると後で行ってみようと思っていた新撰組のふるさと歴史館とのセット割引入館券だった。片方ずつだと大人一人¥200ずつとなるが、両方のセット券だと¥300。つまり¥100ではあるがお得になるわけだ。

土間のあたりにも中々興味深い展示があったが、面白かったのはボランティアさんによる説明である。畳の部屋に正座して説明をしてくれたのは、老年の男性だったが、正座しなれない人のために「椅子を使って頂いてもよい」と声をかけていた。私は正座はしなれないというほどではないが、膝にトラブルがあるので一瞬迷ったが、やめておいた。

日野の名主であった彦五郎さんちと歳の家の姻戚関係は、ノブさん以前からあったようである。歳のおばにあたる人が彦五郎さんの母であったという説明とともに家系図を見せられた。

江戸時代は家を維持していくために、長男が大事にされたが、長男に跡継ぎが生まれぬうちは、末っ子も大事にされた。要するにスペアである。歳は近年の研究によれば十人兄弟の末っ子で六男だったようだが、長兄は盲目で独身、跡継ぎになったのは三兄で、五兄が医者の家に養子に出ていたので、三兄に跡継ぎの子が生まれるまでは、後継者候補として大事に育てられていたようだ。

そして、彦五郎さんちが災難に遭った経緯から、歳も含めて天然理心流に入門し、近藤勇と歳の出会いのきっかけとなったこと、新選組誕生の話などが語られた。基本的に京都の話は出なかったのだが、流石に鴨の話が出たのは、彦五郎さんが近藤派のパトロンだったからだろう。初期の新選組の活動資金の大半はまさにここから出ただろうから。

そして、部屋を移動しつつ、新選組のエピソードや、オブジェなどについても簡単な説明を受けた。展示オブジェは季節によって変えているようだが、端午の節句ということで、金太郎の飾りが目に入った。一番最初の部屋は本陣で佐藤家の人々が使ったパーソナルスペースで庭も綺麗に見えたが、次の間への扉が板張りの襖だったのがちょっと気になっていた。

そして、その板張りの襖の部屋は、あまり大きくはなかったが、扁額があって、庭側へは直接出られるような板敷きの間つきの、立派なつくりになっていた。

「ここは歳三昼寝の間と呼ばれています」。
それは、日野へ戻って近藤勇のために奔走していた歳が疲れて眠るのに使われた部屋だからだそうである。板張りの襖で欄間がないのは、このスペースを境にして本陣として使われた部分と住居部分が明確に分かれていたからである。窓側を開け放てば前庭もすっきりと見えることを考慮しても、大層居心地の良い部屋であったことだろう。

そして、次は市村鉄之助が一年八ヶ月ほどの間滞在したといわれる部屋であった。ここでものすごく残念だったのは、元々襖に毛筆で画かれていたのは判るんだが。明らかに粗悪なコピーをぺろっと紙で貼っていたことである。複製にするしかないのはわかるんだが、せめてもう少し出来のいいコピーにしようやと思ったのは、雰囲気をぶち壊しにされたせいだと自覚している。あまり残念すぎたので、それは撮影していない。

それから、関羽などの置物が置かれた部屋。彦五郎さんの歳への信頼と願いがこめられたものについて語られたが、光量が足りず十分に撮影できなかったので、それについては割愛する。

他、端午の節句の鎧兜と、桃の節句の飾りなどが置かれた部屋、本陣の人の居間スペースなどもあって、歳も使ったかも知れない茶器なども見たが、他の方も多くて撮影できなかったので、こちらも割愛。その代わり、一人ゆっくり中庭を見たのでそちらを。

中から中庭を見て、すぐ石碑が目に入ったので、ものすごく気になっていたのである。中々なことが書いてあるが、これがいつごろからここにあったのかは確認してはいない。歳の頃にあったとしたら、彼も見たかも知れないけれど、内容からすればもっと近年かも知れない。

そして中庭から見た本陣と、中庭の奥。こじんまりとしてはいたが、良いつくりの庭だなと拝見した。

しかし。驚くのはこれから先だったのである。

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